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院長コラムで院長を知ろう!矯正歯科専門医 河合悟が思うこと。

矯正歯科は何を守る医療なのか?院長コラム

2026/06/01 医療・健康

先月、お二人の新しい患者さんのカウンセリングで、矯正治療について改めて深く考えさせられる出来事がありました。お二人とも主訴は「出っ歯」でした。しかし診察すると、原因は上顎の前歯や上顎骨が前に出ているのではなく、下顎骨が小さく後方に下がっていることで、相対的に出っ歯に見えている状態でした。つまり、顎変形症の一つである「下顎後退症」です。

 下顎後退症の問題は、単なる歯並びや咬み合わせだけではありません。下顎骨が後退すると、そこに付着している舌も後方へ移動し、空気の通り道である気道が狭くなります。その結果、呼吸機能に様々な影響を及ぼす可能性があります。例えば、少しでも呼吸をしやすくするために、無意識に下顎を前に出したり、上を向く姿勢を取ったりします。そのため猫背になったり、「写真を撮る時は顎を引いて」と言われたりすることも少なくありません。睡眠中も同様です。仰向けでは重力で舌がさらに後方へ下がり、気道を圧迫するため、横向きやうつ伏せで寝る傾向があります。それでも十分に呼吸できず、浅い睡眠となり、「長く寝ても疲れが取れない」「日中眠い」と感じる方も多くおられます。さらに中高年になると、首周囲の脂肪や加齢による筋力低下が加わり、睡眠時無呼吸症候群を発症しやすくなります。睡眠時無呼吸症候群は、高血圧、脳梗塞、心筋梗塞など重大な血管障害とも深く関係することが知られています。

 下顎後退症の根本的な治療は、下顎骨を前方へ移動する外科的矯正治療です。しかし、全身麻酔による手術と入院が必要となるため、通常の矯正治療に比べると患者さんにとって大きな決断になります。(コラム「命を守る矯正歯科」参照)

 私はカウンセリングの際、こうした説明をした上で、ご家族にも同じような顔つきの方がおられないかをお尋ねしています。お一人目の患者さんは20代半ばの方でした。お父様に顔つきが似ているとのことでしたので、「お父様は大きないびきをかいて寝ておられませんか」とお尋ねすると、予想通り「かなり大きないびきをかいている」とのお話でした。私は「すでに睡眠時無呼吸症候群を発症している可能性がありますから、早めに睡眠外来を受診された方が良いと思います」とお伝えしました。ところが、その後のお話で、お父様が1年ほど前に心筋梗塞で亡くなられていたことを知りました。

私は言葉を失いました。
もし、もう少し早くこの患者さんが受診されていたら。
もし、もっと早く下顎後退症と呼吸障害との関係が広く知られていたら。
ひょっとすると、お父様の命を救えたのではないか。
そう思うと、残念で、悔しくてなりませんでした。

 そして数日後、もうお一人の下顎後退症の患者さんが来院されました。高校生の患者さんで、実はご両親とも、私が30年近く前に矯正治療を担当させていただいた方でした。お母様と一緒に来院されていましたので、同じように下顎後退症について説明し、お父様についてお尋ねすると、「顎が小さく、いびきもひどい」とのお話でした。

 慌てて昔の治療記録を確認すると、やはり典型的な下顎後退症でした。今の私なら、外科的矯正治療をお勧めしていたと思います。

 今となっては悔やまれますが、私が下顎後退症と呼吸・睡眠との関係に気付いたのは、忘れもしない2003年に受診された、著しい出っ歯の高校生の治療経験がきっかけでした。出っ歯の程度が非常に強く、通常の矯正治療だけでは正常な咬み合わせを作ることが困難だったため、外科的矯正治療を行いました。それまで私は、受け口(下顎前突)の外科的矯正治療は数多く経験していましたが、出っ歯(上顎前突・下顎後退症)の外科的矯正治療はほとんど経験がありませんでした。
2005年5月に治療が終了した際、お母様がこう言われたのです。「歯並びが治ったことより、いつも寝てばかりだった子が、居眠りをしなくなったことが一番良かったです」
私はこの言葉に衝撃を受けました。

 改めて治療前後のレントゲン写真を見直すと、気道が大きく広がっていました。その時初めて、下顎後退症に対する外科的矯正治療が、単に歯並びを改善するだけでなく、呼吸機能や睡眠状態の改善にも大きく関係していることを学んだのです。

 当時は、世界の矯正歯科学会でも、下顎後退症と呼吸障害との関係についての報告はほとんどありませんでした。その後、アメリカで睡眠時無呼吸症候群に対する外科的矯正治療の有効性が報告され、現在では広く知られるようになってきています。

 記録を確認すると、高校生の患者さんのお父様の治療を開始したのは2000年3月でした。当然その頃の私は、下顎後退症が呼吸や睡眠に大きな影響を与えるなどとは考えてもいませんでした。ただ歯並びと咬み合わせを整えることだけを目的に治療を行っていました。幸いだったのは、歯を抜かずに治療していたことです。そのため、今からでも外科的矯正治療による改善が十分可能だと考え、お父様にも改めて受診していただけるようお願いしました。
 
 こうした経験から私は、現代医療について強く感じることがあります。医療技術は進歩し、多くの病気の原因や治療法が明らかになってきました。しかし、人間の身体は極めて複雑であり、現在「正しい」とされている医療も、後になって振り返れば不十分だったり、時には間違っていたりすることもあります。歴史を見れば、ハンセン病をはじめ、医療は多くの過ちを繰り返してきました。だからこそ、私たち医療従事者は、自分の医療を過信してはいけないと思うのです。
「本当にこれで良いのか」
その疑問を心のどこかに持ち続けることが大切なのだと思います。

 医学の世界では、『Evidence-Based Medicine(科学的根拠に基づく医療)』が重視されます。もちろんEvidenceは非常に重要です。しかしEvidenceとは、あくまで「過去に分かっていること」に過ぎません。もしEvidenceだけに縛られていたなら、新しい発見や治療法は決して生まれません。Evidenceを尊重しながらも、それを疑い、患者さん自身と真剣に向き合う。その積み重ねの中からしか、新しい医療は生まれないのだと思います。

 私は常々、「Evidenceに従う医療者」ではなく、「Evidenceを生み出す医療者」でありたいと思いながら、日々診療に向き合っています。(コラム「答えは口の中にある」参照)

 今回お話しした下顎後退症に対する外科的矯正治療は、本来、「食べる」「飲み込む」「息をする」という、人が生きていく上で最も基本となる口腔機能を改善するための治療です。しかし近年では、顔貌の変化という審美的側面ばかりが注目され、美容外科領域で「見た目の変化」を主目的とした手術が数多く行われるようになっています。もちろん、見た目の改善も医療において大切な要素です。しかし審美性ばかりを優先し、本来守るべき口腔機能が損なわれてしまっては、本末転倒です。実際に私は、手術後に「うまく噛めない」「口が閉じにくい」「いびきが悪化した」といったケースを見聞きすることも増えてきました。

 30年前、下顎後退症の本当の問題を見抜くことができなかった未熟だった自分への反省を込めて、私はこれからも、矯正治療とは単に歯を並べる治療ではなく、「食べる」「飲み込む」「息をする」という、人が生きていくために最も大切な口腔機能を守り、育てる医療であることを訴え続けていきたいと思っています。

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