覚悟を決める院長コラム
2012/11/01
「覚悟を決める」よく聞く言葉です。大辞林には「危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること」と書いてありました。最近の社会や政治を見ていると、どうもこの「覚悟」が足りない、嫌欠乏しているとしか思えないことが多いように感じます。「覚悟」がないのに、思いつきや受け狙いの発言や行動をするので、世論やマスコミ等の周囲の批判で発言や行動はぶれまくり、結局は発言や行動を訂正、修正、撤回、謝罪に追い込まれ、「騒いだだけで得るものなし」を毎日のように見聞きします。
私が考える「覚悟」の意味は、「目的のためには、代償として何かを失ってよいと決めること」です。重大な発言や行動を起こせば、それに反対する人、組織があるのは当然ですから、すべてを丸く収めることは容易ではありません。上手く行くように最大限の努力はしますが、問題が重大であればあるほど、それでも自分の思うようにすべてを手に入れる、実現することは困難です。その時に目的とする事、物を得るためなら、その他の物を失ってよいと決めることが、「覚悟」を決めるということだと思います。
最近、最も「覚悟」がないと思ったのは、尖閣諸島の領有権の問題です。昨年の尖閣諸島での中国漁船の問題を見れば、尖閣諸島の所有権を個人から国や東京都に移せば、中国が黙っていないことくらい誰にだって分かっていたはずです。それでも国有化したのですから、中国の日本企業を対象にしたデモが起ころうが、日本製品の不買運動が起ころうがそれは想定内として、ジタバタしない、マスコミが幾ら騒ごうが、日本政府として、そうした経済的な被害は国益として仕方がないことで、甘んじて受け入れると声明を出すくらいの「覚悟」あるべきでしょう。逆のその覚悟もないのなら、実効支配してい現状で大きな問題もない尖閣諸島ですから、現状維持にしておくのが良かったに決まっています。
石原元東京都知事も国有化の前は、漁船の避難要に船だまりを作るとか、色々言っていましたが、国有化後、中国の強烈な反発を受けてからと言うもの尖閣諸島に関する発言は全くありません。東京都知事を辞任して新党を立ち上げ国政に出るのなら、あれだけ大騒ぎした尖閣諸島をどうするのかを新党のマニフェストか公約に書くのがスジという物でしょう。
結局、野田首相も石原元東京都知事も国民受け次期選挙での注目度のアップ狙い、国益よりも自身の利益を優先した覚悟のない行動だったとしか思えません。詰まるところ損をしたのは、日本の国、国民だったのです。
政治家が覚悟がないなら、せめて国民には覚悟があってほしいと願うのですが、今の日本の国民に覚悟があるとかと言うと残念ながらそれにも疑問があります。その最たる物は原発の問題です。原発問題を突き詰めると、安全性を取るか経済性を取るかと言うところに議論は行き着いているようです。(これには私は大いに疑問があり、経済性でも原発がすぐれているとは思えません。)
経団連などの経済、産業界は電気料金抑制のために現時点での発電コストが安い原発の推進を主張し、安全性に疑問を持つ市民団体などは原発廃止を主張しています。どちらの主張にもそれぞれ言い分はありますが、双方共にどれくらいの覚悟があって、主張をしているのかそれが問題です。原発を安全だとして推進すると言うなら、経団連に加盟するような一流企業は御社をすべて原発の隣接地域へ移すか、あるいは東京などの大都市圏に原発を作る位の決断をしてもらいたいものです。特に経団連会長で原発の再稼働を強く主張している米倉弘昌氏には家族、一族揃って大飯原発の隣に引っ越すくらいしてもらいたいものです。その覚悟があって原発推進を主張するのなら立派ですし、国民の多くもそれに賛成するでしょう。
また原発に反対する市民団体も如何に電気料金が上がろうと、電気料金の高騰で企業の国際競争力が落ち不況になり、失業者が増え、国民全体の生活水準が経過しても、安全、安心のためなら、それで仕方がないと言い切ってもらいたい物です。その覚悟があって原発廃止を訴えたなら、世論もそれに呼応するでしょう。
しかし、原発推進派も脱原発派も確たる覚悟が有るとは思えませんし、日本の国民全体が何かを失う、犠牲を伴うことを極力避けようとするばかりで、覚悟を決めるなんて事は頭の片隅にもないのではと思わずにはいられません。
こんな事では、得るものは何もなく、時間は空費され、明るい未来はどこにも見いだすことは出来ません。どちらを選ぶにしても、失うことを恐れず覚悟を決めて、後は出来るだけ失うもの、犠牲になる物を減らすことに全力を傾けるだけです。全力で努力すれば、何もうしなくことなく目標を達成できる可能性だって有るでしょう。
まずは、失うことをそそれず決める事、「覚悟を決める」ことが、成功への第一歩だと思うのです。戦後60年以上がたち、平和で豊かな日本で暮らし、生まれてからずっと得ることばかりで、失うことを経験することが少なかった戦後育ちの日本人は、失うことを極端に恐れるようになってしまったのかも知れません。
しかし、東日本大震災で日本国民は目を覚ましたはずではなかったのでしょうか?津波で何もかも流されなくなってしまった街でも、人々は助け合い、支え合って再び立ち上が李、前に進もうとしているではありませんか。失うことを恐れず、覚悟を決めて事に当たる。覚悟が示せる国民、覚悟が示せる国になった時、日本の明るい将来が見える気がします。
私が考える「覚悟」の意味は、「目的のためには、代償として何かを失ってよいと決めること」です。重大な発言や行動を起こせば、それに反対する人、組織があるのは当然ですから、すべてを丸く収めることは容易ではありません。上手く行くように最大限の努力はしますが、問題が重大であればあるほど、それでも自分の思うようにすべてを手に入れる、実現することは困難です。その時に目的とする事、物を得るためなら、その他の物を失ってよいと決めることが、「覚悟」を決めるということだと思います。
最近、最も「覚悟」がないと思ったのは、尖閣諸島の領有権の問題です。昨年の尖閣諸島での中国漁船の問題を見れば、尖閣諸島の所有権を個人から国や東京都に移せば、中国が黙っていないことくらい誰にだって分かっていたはずです。それでも国有化したのですから、中国の日本企業を対象にしたデモが起ころうが、日本製品の不買運動が起ころうがそれは想定内として、ジタバタしない、マスコミが幾ら騒ごうが、日本政府として、そうした経済的な被害は国益として仕方がないことで、甘んじて受け入れると声明を出すくらいの「覚悟」あるべきでしょう。逆のその覚悟もないのなら、実効支配してい現状で大きな問題もない尖閣諸島ですから、現状維持にしておくのが良かったに決まっています。
石原元東京都知事も国有化の前は、漁船の避難要に船だまりを作るとか、色々言っていましたが、国有化後、中国の強烈な反発を受けてからと言うもの尖閣諸島に関する発言は全くありません。東京都知事を辞任して新党を立ち上げ国政に出るのなら、あれだけ大騒ぎした尖閣諸島をどうするのかを新党のマニフェストか公約に書くのがスジという物でしょう。
結局、野田首相も石原元東京都知事も国民受け次期選挙での注目度のアップ狙い、国益よりも自身の利益を優先した覚悟のない行動だったとしか思えません。詰まるところ損をしたのは、日本の国、国民だったのです。
政治家が覚悟がないなら、せめて国民には覚悟があってほしいと願うのですが、今の日本の国民に覚悟があるとかと言うと残念ながらそれにも疑問があります。その最たる物は原発の問題です。原発問題を突き詰めると、安全性を取るか経済性を取るかと言うところに議論は行き着いているようです。(これには私は大いに疑問があり、経済性でも原発がすぐれているとは思えません。)
経団連などの経済、産業界は電気料金抑制のために現時点での発電コストが安い原発の推進を主張し、安全性に疑問を持つ市民団体などは原発廃止を主張しています。どちらの主張にもそれぞれ言い分はありますが、双方共にどれくらいの覚悟があって、主張をしているのかそれが問題です。原発を安全だとして推進すると言うなら、経団連に加盟するような一流企業は御社をすべて原発の隣接地域へ移すか、あるいは東京などの大都市圏に原発を作る位の決断をしてもらいたいものです。特に経団連会長で原発の再稼働を強く主張している米倉弘昌氏には家族、一族揃って大飯原発の隣に引っ越すくらいしてもらいたいものです。その覚悟があって原発推進を主張するのなら立派ですし、国民の多くもそれに賛成するでしょう。
また原発に反対する市民団体も如何に電気料金が上がろうと、電気料金の高騰で企業の国際競争力が落ち不況になり、失業者が増え、国民全体の生活水準が経過しても、安全、安心のためなら、それで仕方がないと言い切ってもらいたい物です。その覚悟があって原発廃止を訴えたなら、世論もそれに呼応するでしょう。
しかし、原発推進派も脱原発派も確たる覚悟が有るとは思えませんし、日本の国民全体が何かを失う、犠牲を伴うことを極力避けようとするばかりで、覚悟を決めるなんて事は頭の片隅にもないのではと思わずにはいられません。
こんな事では、得るものは何もなく、時間は空費され、明るい未来はどこにも見いだすことは出来ません。どちらを選ぶにしても、失うことを恐れず覚悟を決めて、後は出来るだけ失うもの、犠牲になる物を減らすことに全力を傾けるだけです。全力で努力すれば、何もうしなくことなく目標を達成できる可能性だって有るでしょう。
まずは、失うことをそそれず決める事、「覚悟を決める」ことが、成功への第一歩だと思うのです。戦後60年以上がたち、平和で豊かな日本で暮らし、生まれてからずっと得ることばかりで、失うことを経験することが少なかった戦後育ちの日本人は、失うことを極端に恐れるようになってしまったのかも知れません。
しかし、東日本大震災で日本国民は目を覚ましたはずではなかったのでしょうか?津波で何もかも流されなくなってしまった街でも、人々は助け合い、支え合って再び立ち上が李、前に進もうとしているではありませんか。失うことを恐れず、覚悟を決めて事に当たる。覚悟が示せる国民、覚悟が示せる国になった時、日本の明るい将来が見える気がします。