長寿社会は幸せか?院長コラム
2010/09/04
高齢者の所在不明のニュースが報じられています。発端は、生存していれば111歳とされていた男性の白骨遺体が東京都足立区で発見された事件でした。事件発覚後、全国の自治体が高齢者の現況把握を緊急実施したところ、所在が確認できなかった高齢者が多数存在することが明らかになったのです。現在、100才以上の高齢者は全国で4万名を越え、その全ての所在を確認することは、数が多すぎてほぼ不可能とのことです。高齢者の所在不明の原因の多くは、親族のいない一人暮らしの老人あるいは失踪者が亡くなり、身元不明の死者(行旅死亡人)として扱われ結果的に戸籍だけが残ってしまった場合や自治体の怠慢、事務的なミスで戸籍の抹消が行われていない事だと言われています。
しかし、事件の発端になったような家族による高齢者の死亡の隠蔽も珍しいことではないようです。事件発覚から一月が経ちますが、未だに次々家族による高齢者の死亡の隠蔽事件が報じられている位ですから、これからもまだまだ発覚するのではないでしょうか?現在多くの自治体では100歳前後を目安に所在の確認をしており、発覚を恐れた家族が届け出ているケースも多々あるようで、100歳前後の所在不明高齢者の数は減っていると思いますが、これを90歳前後、80歳前後と年齢を下げていった時、どれだけ多くの所在不明高齢者が出てくるのか想像も出来ません。
幾ら多くの所在不明高齢者が存在しようが、一般の人に影響がなければ急いで対策をとる必要も無いですが、そうはいきません。多くの所在不明高齢者の家族は、その高齢者の年金を受給している実態があります。最初の111歳の例では、家族が遺族共済年金を約915万円も不正受給していました。そして、その家族が逮捕された事から、同じように死亡した高齢者の年金を不正受給していた家族が発覚を恐れ、失踪したり、自殺したりといったことまで起こっています。
100歳前後の高齢者の子供なら、年は70歳から80歳くらいで本人も当然年金の受給者なはずで、親と自分の年金で生活していたのでしょう。この年齢の高齢者なら年金の掛け金に比べて受給額はとてつもなく多いのに、その上それを不正受給する、高齢者と言えどもとても許せ無いと思うのが、現在年金を支払っている現役世代の率直な感想でしょう。発端となった東京都足立区の老人世帯も立派な一戸建てに暮らしていて、哀れな老人とは言えそうにありませんし、年金暮らしの高齢者が全て現役世代よりも経済的に困窮しているとは言えないのが現実です。
しかしその反面、蓄えが無く老齢基礎年金(年額792,100円)だけで暮らしていくのはそれは大変で、夫婦2人の年金を合わせて何とか生活していると報じているニュースもありました。夫婦の内の一人が亡くなれば年金は半分になり、当然生活は成り立たない、生活保護(生活保護は家賃限度額を含めたら毎月約13万円)を申請するか、死亡を隠しそのまま年金を不正に受給するか、二者選択。そんな悲しい老後も有るのです。それが極々希であれば救いですが、現実はそうでもなさそうな気がします。
高齢で入院し意識不明の親に人工呼吸器を着け、どんな事があっても生かしておいて欲しいと言う高齢の家族。年金受給で世帯所得が少ないので医療費はかからず、年金は家族の生活費。そしてまた、その老人を預かることで収入を得る病院。結局全て、国からのお金を当てにして、貰える物は何でももらうと言う卑しい心。自分の生活は自分で守ると言う気概もなく、貰わなきゃ損という社会の風潮、それが今の日本の現実なのでしょうか?
100歳を越える高齢の親を持つ世代の方々が現役でバリバリ働かれていた時代には、そんな社会に頼るような暮らしは恥ずかしくて出来ないと思われていたはずです。その時代には、本当に生活が苦しくても生活保護を受けることも恥ずかしくてなかなか踏み切れなかったと言うではありませんか? そんな世代の方々が一部とは言え、親の年金に頼る暮らしをするなんてどうしたこと、どこで間違ってしまったのでしょうか。
今の現役世代が年金受給者となる頃は、年金の額も少なくなり老人の暮らしは一層厳しいものになる可能性が高いと言われています。そうなるとこのままでは、長く生きることが本当に幸せなのか、大いに疑問になってしまいます。幸せな長寿社会の実現は不可能なのでしょうか?これに対する私の答えは、「ピンピンころり」の長寿社会の実現です。闇雲に命を長らえるのではなく、健康に暮らす期間を長くし、病床に就いたら潔く天寿を全うすると言う事です。生きると言う事の意味を「命がある」こと言う事からから、喜んだり悲しんだりする事が出来る「生活がある」事に変えるのです。意識もないく、食事を取れない人を、経管栄養で命だけを長らえるような医療に多くの費用を費やすようなことを止めるのです。こうした医療や介護の無駄をなくし、健康な高齢者はお互いに助け合い生活することで、自立した生活を送るのです。これこそが、尊厳を持った高齢者の暮らしであり、長寿社会の幸せだと思います。
しかし、事件の発端になったような家族による高齢者の死亡の隠蔽も珍しいことではないようです。事件発覚から一月が経ちますが、未だに次々家族による高齢者の死亡の隠蔽事件が報じられている位ですから、これからもまだまだ発覚するのではないでしょうか?現在多くの自治体では100歳前後を目安に所在の確認をしており、発覚を恐れた家族が届け出ているケースも多々あるようで、100歳前後の所在不明高齢者の数は減っていると思いますが、これを90歳前後、80歳前後と年齢を下げていった時、どれだけ多くの所在不明高齢者が出てくるのか想像も出来ません。
幾ら多くの所在不明高齢者が存在しようが、一般の人に影響がなければ急いで対策をとる必要も無いですが、そうはいきません。多くの所在不明高齢者の家族は、その高齢者の年金を受給している実態があります。最初の111歳の例では、家族が遺族共済年金を約915万円も不正受給していました。そして、その家族が逮捕された事から、同じように死亡した高齢者の年金を不正受給していた家族が発覚を恐れ、失踪したり、自殺したりといったことまで起こっています。
100歳前後の高齢者の子供なら、年は70歳から80歳くらいで本人も当然年金の受給者なはずで、親と自分の年金で生活していたのでしょう。この年齢の高齢者なら年金の掛け金に比べて受給額はとてつもなく多いのに、その上それを不正受給する、高齢者と言えどもとても許せ無いと思うのが、現在年金を支払っている現役世代の率直な感想でしょう。発端となった東京都足立区の老人世帯も立派な一戸建てに暮らしていて、哀れな老人とは言えそうにありませんし、年金暮らしの高齢者が全て現役世代よりも経済的に困窮しているとは言えないのが現実です。
しかしその反面、蓄えが無く老齢基礎年金(年額792,100円)だけで暮らしていくのはそれは大変で、夫婦2人の年金を合わせて何とか生活していると報じているニュースもありました。夫婦の内の一人が亡くなれば年金は半分になり、当然生活は成り立たない、生活保護(生活保護は家賃限度額を含めたら毎月約13万円)を申請するか、死亡を隠しそのまま年金を不正に受給するか、二者選択。そんな悲しい老後も有るのです。それが極々希であれば救いですが、現実はそうでもなさそうな気がします。
高齢で入院し意識不明の親に人工呼吸器を着け、どんな事があっても生かしておいて欲しいと言う高齢の家族。年金受給で世帯所得が少ないので医療費はかからず、年金は家族の生活費。そしてまた、その老人を預かることで収入を得る病院。結局全て、国からのお金を当てにして、貰える物は何でももらうと言う卑しい心。自分の生活は自分で守ると言う気概もなく、貰わなきゃ損という社会の風潮、それが今の日本の現実なのでしょうか?
100歳を越える高齢の親を持つ世代の方々が現役でバリバリ働かれていた時代には、そんな社会に頼るような暮らしは恥ずかしくて出来ないと思われていたはずです。その時代には、本当に生活が苦しくても生活保護を受けることも恥ずかしくてなかなか踏み切れなかったと言うではありませんか? そんな世代の方々が一部とは言え、親の年金に頼る暮らしをするなんてどうしたこと、どこで間違ってしまったのでしょうか。
今の現役世代が年金受給者となる頃は、年金の額も少なくなり老人の暮らしは一層厳しいものになる可能性が高いと言われています。そうなるとこのままでは、長く生きることが本当に幸せなのか、大いに疑問になってしまいます。幸せな長寿社会の実現は不可能なのでしょうか?これに対する私の答えは、「ピンピンころり」の長寿社会の実現です。闇雲に命を長らえるのではなく、健康に暮らす期間を長くし、病床に就いたら潔く天寿を全うすると言う事です。生きると言う事の意味を「命がある」こと言う事からから、喜んだり悲しんだりする事が出来る「生活がある」事に変えるのです。意識もないく、食事を取れない人を、経管栄養で命だけを長らえるような医療に多くの費用を費やすようなことを止めるのです。こうした医療や介護の無駄をなくし、健康な高齢者はお互いに助け合い生活することで、自立した生活を送るのです。これこそが、尊厳を持った高齢者の暮らしであり、長寿社会の幸せだと思います。