主権在民の時院長コラム
2009/08/05
やっと衆議院が解散され、いよいよ政権交代をかけた選挙戦の幕が切って下ろされました。新聞、テレビのニュースに選挙、政権交代、マニフェストと盛んに盛り上げています。それに加えて、8月からは裁判員制度もスタートし、ニュースでは初めての裁判員による裁判を実況中継のように報じています。また先月の終わりには、法制審議会が「成年年齢を18歳に引き下げるのが適当」とする最終報告書をまとめています。
これら一つ一つは何の関連もない事のように捉えられがちですが、それらは全て従来の社会システムを変えると言う点から見ると全てが繋がっているように思えます。高齢化社会の到来とか、環境循環型社会への転換とか色々な社会の変化が言われますが、もっと根底にある日本の社会のシステム、日本の国としての意志の決定方法、システムが大きく変わる転換点に日本は今差し掛かっているのではないでしょうか?
それは、従来専門家に任せていれば良かった事を一般の国民が責任を持って決断すると言う事です。政権交代は、政治の世界での決定を今まで政治家や官僚に任せていれば何とかなると思っていたのに、とんでもない社会の状況になり国民が政権を選び国の将来を自分たちで決める事を決断しようとしている事と言い換える事が出来ます。
裁判員制度も同様です。法律の専門家である裁判官や弁護士達に、法を犯した被告の処罰を任せて良かった時代は終わり、国民が被告の処罰の判断を下すと言う決断をする時代になったのです。今までは法律の専門家に犯罪から守ってもらっていた時代、これからは国民自らが犯罪に対峙し、自分たちで犯罪から身を守る時代になったのです。
成年年齢を18歳に引き下げる事もこの自己責任の延長です。高校を卒業し、社会へ出る。その時社会的な権利を得ると同時に義務を負う。何時までも親や社会の庇護の元にいるのではなく、社会の一員として責任を果たすと言う自覚を待たせる事が成年年齢の引き下げの目的なのではないでしょうか。
このような社会システムの変化は、なぜ起こっているのでしょう。私はその原因は高学歴化だと思います。近代社会が成立した明治以降、専門家と呼ばれる職業(その良い例が政治家であり、裁判官であり、また医師など)に就く人と一般の国民との教育レベルに大きな差があり、その事で専門家は自分たちが全てを決める事が良い事と考え、また国民も専門家に任せる方が間違いないと思っていました。ですから、大半の国のシステムは専門家に委ねられてきたのです。ところが高度成長期を経て、日本国民の教育水準が上がり多くの人が大学教育を受けるようになって専門家と呼ばれる人達と一般の国民の教育水準の差がなくなってきたのです。この国民の能力の向上により、今まで盲目的に信じられてきた専門家の仕事内容について意見や疑問が一般社会の声となった訳です。つまり国民の教育水準の向上、知識水準の向上が専門家任せの社会システムから国民自らが社会を運営するシステムへと変えようとしているのです。
社会システムの変更には不安も付きまといます。裁判員制度でも人の生死を判断する死刑判決を一般国民がするのは荷が重すぎるし、一般人では感情に流され正しい判断が出来ない等の理由から、職業裁判官に任せるべきだという意見も多くあるようですが、これも不安の表れだと思います。専門家も今まで自分たちの思いどおりになってきた物が、一般国民の意志に左右され、やりにくい事も多くなり、また専門家としての仕事場を失う場面もあるかも知れませんから、この変化への抵抗や不安も当然です。
しかし、今こそ国民は自分達の力を信じ立ち上がる時なのではないでしょうか?明治以降の長い年月を経て、やっと本当に国民が自分たちの国の制度、システムを自分たちの意志で決められる時が来たのです。今までも「主権在民」とは言われていましたが、国民の多くはそれを実感していたでしょうか?「何をしてもどうせ社会は変わらない」そんな気持ちが国民の本音だったのではないでしょうか?それが今、変わろうとしているのです。真の「主権在民」を実現するため、今こそ勇気を持って積極的に社会のステムの変更に挑む時です。第一歩として、次の衆議院選挙では必ず投票し、自分の意志を示しましょう。
これら一つ一つは何の関連もない事のように捉えられがちですが、それらは全て従来の社会システムを変えると言う点から見ると全てが繋がっているように思えます。高齢化社会の到来とか、環境循環型社会への転換とか色々な社会の変化が言われますが、もっと根底にある日本の社会のシステム、日本の国としての意志の決定方法、システムが大きく変わる転換点に日本は今差し掛かっているのではないでしょうか?
それは、従来専門家に任せていれば良かった事を一般の国民が責任を持って決断すると言う事です。政権交代は、政治の世界での決定を今まで政治家や官僚に任せていれば何とかなると思っていたのに、とんでもない社会の状況になり国民が政権を選び国の将来を自分たちで決める事を決断しようとしている事と言い換える事が出来ます。
裁判員制度も同様です。法律の専門家である裁判官や弁護士達に、法を犯した被告の処罰を任せて良かった時代は終わり、国民が被告の処罰の判断を下すと言う決断をする時代になったのです。今までは法律の専門家に犯罪から守ってもらっていた時代、これからは国民自らが犯罪に対峙し、自分たちで犯罪から身を守る時代になったのです。
成年年齢を18歳に引き下げる事もこの自己責任の延長です。高校を卒業し、社会へ出る。その時社会的な権利を得ると同時に義務を負う。何時までも親や社会の庇護の元にいるのではなく、社会の一員として責任を果たすと言う自覚を待たせる事が成年年齢の引き下げの目的なのではないでしょうか。
このような社会システムの変化は、なぜ起こっているのでしょう。私はその原因は高学歴化だと思います。近代社会が成立した明治以降、専門家と呼ばれる職業(その良い例が政治家であり、裁判官であり、また医師など)に就く人と一般の国民との教育レベルに大きな差があり、その事で専門家は自分たちが全てを決める事が良い事と考え、また国民も専門家に任せる方が間違いないと思っていました。ですから、大半の国のシステムは専門家に委ねられてきたのです。ところが高度成長期を経て、日本国民の教育水準が上がり多くの人が大学教育を受けるようになって専門家と呼ばれる人達と一般の国民の教育水準の差がなくなってきたのです。この国民の能力の向上により、今まで盲目的に信じられてきた専門家の仕事内容について意見や疑問が一般社会の声となった訳です。つまり国民の教育水準の向上、知識水準の向上が専門家任せの社会システムから国民自らが社会を運営するシステムへと変えようとしているのです。
社会システムの変更には不安も付きまといます。裁判員制度でも人の生死を判断する死刑判決を一般国民がするのは荷が重すぎるし、一般人では感情に流され正しい判断が出来ない等の理由から、職業裁判官に任せるべきだという意見も多くあるようですが、これも不安の表れだと思います。専門家も今まで自分たちの思いどおりになってきた物が、一般国民の意志に左右され、やりにくい事も多くなり、また専門家としての仕事場を失う場面もあるかも知れませんから、この変化への抵抗や不安も当然です。
しかし、今こそ国民は自分達の力を信じ立ち上がる時なのではないでしょうか?明治以降の長い年月を経て、やっと本当に国民が自分たちの国の制度、システムを自分たちの意志で決められる時が来たのです。今までも「主権在民」とは言われていましたが、国民の多くはそれを実感していたでしょうか?「何をしてもどうせ社会は変わらない」そんな気持ちが国民の本音だったのではないでしょうか?それが今、変わろうとしているのです。真の「主権在民」を実現するため、今こそ勇気を持って積極的に社会のステムの変更に挑む時です。第一歩として、次の衆議院選挙では必ず投票し、自分の意志を示しましょう。