日本の医療を守るには院長コラム
2008/08/01
「日本の医療制度は、世界最高水準」こう思っている人は多いと思います。男女ともに平均余命は世界一ですから、そう思うのも当然のことでしょう。地方の中小病院にもCTやMRI等の最新の高度な医療機器があり、いつでも誰でも低廉な費用で医療を受けられる。こんな素晴らしい事はない。やっぱり日本の医療水準は世界一じゃないかと思えてしまいそうです。
このように日本の医療水準は一見、世界一のようですがもう少し詳しく見ていくと疑問な点も多く有ります。先程のCTやMRIの人口あたりの設置台数は圧倒的に世界一ですが、機能を見るとどうでしょう。最新のマルチスライスと言われるCTの設置台数は少なく、低機能なCTの設置台数が圧倒的です。MRIやその他の医療機器も高機能の物の割合は少なく、中機能から低機能な機器が大半を占めているのです。
機器だけでなく、人口あたりの病床数は多いのですが、人口あたり医師や看護師の数も先進国の中では最低です。
ではどうして医療機器は、機能が低く台数が多くなるのでしょうか?それは、高機能な機器で検査しても、低機能な機器で検査しても費用が替わらないからです。CT検査なら幾ら、MRIなら幾らと国が決めているので機能が高い機器で詳しく検査しても貰える料金が一緒なら、誰が高い方の機器を導入しますか?安い低機能な機器で良いと思うのが人情でしょう。そして、日本の高度医療機器の稼働率は極端に低く、大半の医療機関では採算が取れていないのが現状です。それなのになぜ医療機関が高価な医療機器を導入するのか?それは、患者さんが、医療機器の充実した病院が良い病院と思い込み、設備がないと患者さんが来てくれない。だから病院はこぞって医療機器を導入する。それが必要な患者さんが居なくても。
それと同様に病院の建物も新しくて立派な病院を患者さんはよい病院と思い、また、廊下の広さまで国から施設基準が決められ、本当に必要かどうかは後回しでどんどん作られました。その結果、器ばかりできてそれを運営する医師や看護師が不足し、十分機能が生かされていないのが現状でしょう。
要は医療が箱物行政の公共事業と同じ感覚で、施設、設備を充実することを主眼として行われてきたわけです。社会が貧しかった時代にはそれでよかったかも知れませんが、豊になった社会ではそれは通じません。社会が豊になれば、人々は病院があればよいのではなく、医療サービスの質を追求するようになります。貧しかった時代に食べ物があればどんな食堂でも繁盛したのが、今ではレストランは美味しいのは当たり前、それに加えてサービスが良い、サービスの質を追求する時代になったと同じです。
サービスの質を追求すれば当然コストもかかります。そのために医療費は増大の一途をたどり、国の財政を圧迫しようとしています。そこで公共事業の効率化と同様に医療の効率化が叫ばれているわけです。しかし一律に医療の効率化を追求すれば、質の追求はなおざりになり高度な医療を提供できる医療機関はなくなります。
それではどうしたらよいのでしょう?
第一は、公共事業と同様に国の関与を減らし、民間の裁量、サービスの競争を促進させることです。そのためには、全国何処でも、どんな施設で、どんな先生に診察を受けても同一の価格という、競争が発生しようがない今の保険制度を変えなくてはなりません。充実した設備で、経験豊富な先生の診察を受ければ医療費が高くなる。資本主義社会で当たり前の事を医療にも導入する必要があります。それにより、医療機関や医師はより質の高いサービスを提供しようと先を争い医療の質が向上します。
第二は、国民が質の高い医療サービスを受ければ、自己負担も大きくなるのは仕方ない、医療を受けるのはお金がかかると認識することです。風邪をひいて内科を受診した費用がレストランで食事をするより安い、入院して手術を受ける費用がホテルに宿泊するよりも安い。そんなに負担する医療費が安いのはおかしくないですか?そしてそんなに安い必要がありますか?戦中、戦後の食べ物もなく配給に頼より、食べ物があればよかった時代と違うのです。食べ物も量より質となり、自分で費用を負担してよりおいしい物を求めるように、医療も自分で費用を負担してより高度な医療を受ける時代になった事を国民が受け入れるのです。
つまり、国民が国の制度に頼るのではなく自分で費用を負担し、自己責任で医療を受けるという覚悟を持たなくてはいけないと言う事です。それが出来なければ、医療費が際限なく膨らんで財政が破綻するか、あるいは国民が先進国の中で最低の医療を受けるになるかどちらか、あるいはその両方が現実となる日も近いのです。
保険制度は誰にも高度な医療を補償するのではなく、安全弁として最低限度の医療を補償するものだと割り切り、低所得者の命を守る安全弁としては公的扶助の制度の充実を計るべきだと思います。
このように日本の医療水準は一見、世界一のようですがもう少し詳しく見ていくと疑問な点も多く有ります。先程のCTやMRIの人口あたりの設置台数は圧倒的に世界一ですが、機能を見るとどうでしょう。最新のマルチスライスと言われるCTの設置台数は少なく、低機能なCTの設置台数が圧倒的です。MRIやその他の医療機器も高機能の物の割合は少なく、中機能から低機能な機器が大半を占めているのです。
機器だけでなく、人口あたりの病床数は多いのですが、人口あたり医師や看護師の数も先進国の中では最低です。
ではどうして医療機器は、機能が低く台数が多くなるのでしょうか?それは、高機能な機器で検査しても、低機能な機器で検査しても費用が替わらないからです。CT検査なら幾ら、MRIなら幾らと国が決めているので機能が高い機器で詳しく検査しても貰える料金が一緒なら、誰が高い方の機器を導入しますか?安い低機能な機器で良いと思うのが人情でしょう。そして、日本の高度医療機器の稼働率は極端に低く、大半の医療機関では採算が取れていないのが現状です。それなのになぜ医療機関が高価な医療機器を導入するのか?それは、患者さんが、医療機器の充実した病院が良い病院と思い込み、設備がないと患者さんが来てくれない。だから病院はこぞって医療機器を導入する。それが必要な患者さんが居なくても。
それと同様に病院の建物も新しくて立派な病院を患者さんはよい病院と思い、また、廊下の広さまで国から施設基準が決められ、本当に必要かどうかは後回しでどんどん作られました。その結果、器ばかりできてそれを運営する医師や看護師が不足し、十分機能が生かされていないのが現状でしょう。
要は医療が箱物行政の公共事業と同じ感覚で、施設、設備を充実することを主眼として行われてきたわけです。社会が貧しかった時代にはそれでよかったかも知れませんが、豊になった社会ではそれは通じません。社会が豊になれば、人々は病院があればよいのではなく、医療サービスの質を追求するようになります。貧しかった時代に食べ物があればどんな食堂でも繁盛したのが、今ではレストランは美味しいのは当たり前、それに加えてサービスが良い、サービスの質を追求する時代になったと同じです。
サービスの質を追求すれば当然コストもかかります。そのために医療費は増大の一途をたどり、国の財政を圧迫しようとしています。そこで公共事業の効率化と同様に医療の効率化が叫ばれているわけです。しかし一律に医療の効率化を追求すれば、質の追求はなおざりになり高度な医療を提供できる医療機関はなくなります。
それではどうしたらよいのでしょう?
第一は、公共事業と同様に国の関与を減らし、民間の裁量、サービスの競争を促進させることです。そのためには、全国何処でも、どんな施設で、どんな先生に診察を受けても同一の価格という、競争が発生しようがない今の保険制度を変えなくてはなりません。充実した設備で、経験豊富な先生の診察を受ければ医療費が高くなる。資本主義社会で当たり前の事を医療にも導入する必要があります。それにより、医療機関や医師はより質の高いサービスを提供しようと先を争い医療の質が向上します。
第二は、国民が質の高い医療サービスを受ければ、自己負担も大きくなるのは仕方ない、医療を受けるのはお金がかかると認識することです。風邪をひいて内科を受診した費用がレストランで食事をするより安い、入院して手術を受ける費用がホテルに宿泊するよりも安い。そんなに負担する医療費が安いのはおかしくないですか?そしてそんなに安い必要がありますか?戦中、戦後の食べ物もなく配給に頼より、食べ物があればよかった時代と違うのです。食べ物も量より質となり、自分で費用を負担してよりおいしい物を求めるように、医療も自分で費用を負担してより高度な医療を受ける時代になった事を国民が受け入れるのです。
つまり、国民が国の制度に頼るのではなく自分で費用を負担し、自己責任で医療を受けるという覚悟を持たなくてはいけないと言う事です。それが出来なければ、医療費が際限なく膨らんで財政が破綻するか、あるいは国民が先進国の中で最低の医療を受けるになるかどちらか、あるいはその両方が現実となる日も近いのです。
保険制度は誰にも高度な医療を補償するのではなく、安全弁として最低限度の医療を補償するものだと割り切り、低所得者の命を守る安全弁としては公的扶助の制度の充実を計るべきだと思います。